
#16 数え日
ベンのことは、ぼくも大好きだったな。オーストラリア人だった。
秋田のなまはげの話をしているとき、興味をもったベンに、ほろ酔いの誰かが、「ジャパニーズ・サンタクロース」だと、いい加減なことを教えた。
ベンは半分本気にして、クリスマスには「ナグゴイネガア」と叫んでいた。
ベンの質問はかわいらしくて、
「餅を食べるとき、飲みこむタイミングはいつですか?」とか、
「なめこ汁はどういう意味ですか? エッチな意味ですか?」とか、
「セックス地獄は、セックスがたくさんある地獄ですか? それは、日本では地獄ですか?」
ていうか、「セックス地獄」はスタンダードな日本語ではありません。
河童の話をしていたとき、ある人がベンにたずねた。
「オーストラリアに河童はいないんでしょう?」
ベンは即座に答えた。
「でも、日本にもいないでしょう?」
た、たしかに……。
ベンが日本を引き揚げて、オーストラリアに帰ってしまうとき、久美さんは迷って、結局着いて行かなかった。
「ベンとは、ふしぎに反りが合った」
と、あんまり気さくに言うので、ぼくも気がねなく思い出をしゃべって、だから久美さんも気がねなくしゃべって、
久美さんは、こないだ空き巣に入られた。ベランダからだった。
警察官に、なくなった物を挙げるように言われ、ひとつひとつ思い出しながら、彼女はあることに気づいた。
ベンから贈られた物がどこにもなかったのだ。盗まれたわけじゃなくて、もともとなかった。
ベンからのプレゼントは、花とか、やがて消える物、捨てる物ばかりだった。
こんなこともあった。
ベンがめずらしく怒った。
久美さんが部屋を片づけて、ベンの物をなくしたらしい。彼にとっては大切なその小さな紙包みを、久美さんはどこに置いたか見当もつかなかった。日本語でたどたどしく怒るならまだしも、ベンが英語で怒ると本気っぽかった。
ふたりは、怒りながら、怒られながら、十分ほど探してやっとあった。サングラスや扇子やポイントカードがごちゃごちゃ投げこまれたトレイの中から久美さんが見つけだして、
「コレでしょ?」
ベンはその包みをいったん受けとってから、また久美さんに渡して、今度は日本語で言った。
「久美へのプレゼントです」
久美さんはベンのそんな流儀にとまどいながら、茶色い包みを開けると、結晶のような物があった。氷砂糖だった。
「きのう下町に行ったとき、久美に似合うと思って」
ベンからのプレゼントは、身に着けるにしても、外側にではなく、内側に溶けてしまう物ばかりだったという。
「去った後に、残骸を残したくなかったのではないかしら。あんな人だから、思い出からも自由でいたかったのかもしれない。ここは、かりそめの場所だったのでしょう。帰国まであと何日、あと何日、そんな数え日みたいな毎日だったのではないかしら」
数え日とは、おしつまった年の瀬に、今年もあと十日、あと三日、と数えながら、やり過ごす日々のことだった。
ぼくも、いっしょに暮らした人が出ていくとき、荷造りを手伝いながら、気づいたことがある。
ふたりの物がなかったのだ。ふたりでお金を出し合って買った物は何もなくて、部屋にあるのは、どちらかひとりの物ばかりだった。
だから、何をどっちが引き取るか、いちいち話し合う必要はなくて、アイロンは荷造りする物、中華鍋はそのまま残す物、そんなふうに、ふたりともそれぞれの所有者をちゃんと承知していた。
なんだか、二年をかけてスムーズに別れるための準備をしてきたような、別れをゴールに日々をやり過ごしてきたような、そんなおかしさがあった。
久美さんは、警察官と、盗まれた物リストを作りながら、嘘をついてみた。
「それから、砂糖です」
「砂糖?」
「氷砂糖です」
警察官は、そんな貴重品でもない物を、とあきれた感じで記入して、そうやって、ベンからもらった甘いものが、公文書として記録された。

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